皆さんは田﨑草雲をご存知でしょうか。足利市民でも「画家?草雲美術館は聞いたことがあるけど?」という方が多いかもしれません。ですがこの草雲には足利の恩人という側面があります。

79歳の田﨑草雲


 1815年、江戸足利藩邸に武士の子として生まれた草雲ですが、20歳で画家として生きることを決意し脱藩します。諸国を旅し、谷文晁や渡辺崋山から画を学びます。その後、明治維新により国内は混乱しますが、江戸から帰ってきた草雲が活躍することになります。藩政改革を提言し、「誠心隊」という民兵組織を結成して藩の治安維持や防衛に務めます。その際に絹本数十幅を描いて軍資金を稼いだり、陣羽織に自ら龍や虎を描き、隊士の士気を挙げたりしています。1868年、足利南部の梁田で旧幕府軍と新政府軍の戦闘(梁田戦争)が起こります。新政府軍に従う決断をしていた足利藩は、誠心隊の警備で足利を守りました。当時最新式のスナイドル銃などの装備を恐れて、旧幕府軍が近づけなかったという逸話も残っています。

草雲美術館に残る誠心隊の陣羽織


 その後は画家として作品の制作と弟子の育成に専念します。パリやシカゴの各博覧会で表彰され、その価値は世界にも認められます。晩年、宮内省から帝室技芸員(現在の人間国宝のような制度)にも任命されています。

草雲美術館に残る代表作


 さて、そんな草雲がなぜ足利の恩人なのか。まずは日本遺産「史跡足利学校」を守ったからです。明治時代、県によって学校所有の古書籍(国宝含む)が売却されました。草雲はすぐさま県庁に出向き命がけで守りました。
 次に国宝の本堂を有する「鑁阿寺」も守りました。鑁阿寺は明治に入り、領地を取り上げられたため、資金難で本堂等修復ができない状況にありました。そこで、寄付集めに尽力したのも草雲なのです。
 足利のシンボルとして多くの観光客を集め、市民の誇りとなっている足利学校と鑁阿寺は、草雲のおかげで今の姿をとどめています。今年はそんな草雲の生誕210年の年でもあります。これを機に郷土の偉人をもう一度見直してみてはいかがでしょうか。

【参考文献】
菊地卓(2002)『慶応四年の田﨑草雲その知られざる姿』
足利郷土史料研究所(1999)『特集・続 田﨑草雲の謎』
亀田浩三(2019)『田崎草雲-人物と業績-』
足利市史編さん委員会(1977)『近代足利市史第一巻通史編 原始~近代(二)』

★【あしかが歴史紀行】は2011年から2018年にかけてタウン誌『COMPANY?』『COMPANY43』で連載させていただいた【ふるさと歴史紀行】を再掲したものです。事実確認や状況の変化に合わせ、内容を一部改変しています。